まゆげのゲームレビュー

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【閃の軌跡】homla氏の考察を閃に当てはめて考察<けもフレ2と閃に共通する問題点>

※本記事の見出しは、homla(@hgmikle)氏の記事から引用しています。

※本記事は、閃の軌跡シリーズについての批判的な意見を多数含みます。

※本記事は、閃の軌跡シリーズについての重大なネタバレを含みます。

※本記事の読了目安時間は10分前後(約5000字)です。

 

こんにちは、まゆげと申します。

先日、フォロワーの方からhomla(@hgmikle)氏の記事をご紹介いただきました。

shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com

 

 こちらの記事では、けものフレンズ2期がなぜ支持されなかったかについて、けものフレンズ1期と比較して考察されています。フォロワーの方曰く、この記事で挙げられたけもフレ2期における問題点は、閃の軌跡の迷走と繋がるのでは?との見方をされており、私も読んでみたところ、なるほどこれはその通りだと思い、この記事を書くに至りました。

 

 本記事の見出しは、homla氏がけもフレ2の問題点として挙げた点を引用し、かつ私なりに言葉尻を少し変えたものです。つまり、見出しがけもフレ2と閃の共通の問題点です。これらの問題点について見ていきましょう。

 なお、私は、けものフレンズを見ていないので、ピントがずれた言い方をしている部分があるかもしれませんがご容赦願います。

 

 

1.会話が不自然である(監督の技量不足)

 けものフレンズ2期における会話の不自然さと、閃の会話の不自然さは全く意味合いが異なりそうですが、管理監督する人の技量不足という点では根っこの問題は似ているのかもしれません。

 いや、やはり違うような気がします。けものフレンズはたつき監督という天性の才能を失ってしまったために起きた問題、というような印象を受けましたが、閃はそんな大げさなものではなく、単なる推敲不足だと思うので、やはり怠慢と言うべきでしょうか。

 

2.『(今はやりの)勧善懲悪を超えたもの』を描けなかった

 『勧善懲悪を超えたもの』とは、つまり、黒ではないけど白でもないグレーとの対立を描く、ということだと思います。閃は、その対立を描くというよりも黒を作らないようにすることに意識を割いたようにも感じます。結果、主人公と敵対する側でのコントラストが曖昧になり、なんかぼやっとしてしまったように感じます。

 また、homla氏の記事では、『勧善懲悪を超えたもの』をトレンドともおっしゃっています。確かにこれは昨今のトレンドっぽいですね。閃がこのトレンドに乗ろうとしたのか元々の構想であったのかはわかりませんが、このテーマにおける表面的な部分しかなぞれていない印象はあります。そもそも『勧善懲悪を超えたもの』もテンプレの一つとして捉え、なんとなく盛り込んだだけの気もします。グレーとの対立で何を表現したかったのかよくわかりませんでしたから。

 私は、このトレンドを外れることが面白くなくなる原因にはなりえないと思うので、やはり明確なテーマが欲しいです。

 

3.世界観と設定の構築が甘く、説得力が足りない(体感・共感しにくい)

 私がこれまでに触れた作品で、世界観と設定を理解できたものはありません。どの作品でも何かしらよくよく考えるとこれどういうこと?おかしくない?という点は出てきます。ですが、それにより評価にけちをつけることはほとんどありません。自分の読解力を疑ったり、そもそもあまり気にはなりません。

 しかし、閃はよくよく考えなくてもおかしい点が満載です。これは、1.の項目にも通じますが、やはり設定うんぬんよりもテキスト面に問題があるような気がします。次のスクショを見てください。

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ちなみにシノプシスだとセリフは「機械の馬みたいなものか…」

 閃Ⅲより、導力バイクを見たクルトくんが漏らした感想です。導力により車や戦車が当たり前の世界でなぜ戦国時代からタイムスリップしてきたかのような発言なのでしょうか。「二輪の導力車?」くらいの感想でいいような気がします。あまりにもわざとらしい表現は、最低限のリアリティを欠如させ、作品への没入間を失わせます。こういうのが本当にもったいないです。

 

4. 伏線が回収されない

 次回作を考えてのことなのである程度は仕方ないかとは思います。が、やはり閃は多すぎますよね。最たるものが結社の目的だと思います。また、閃における伏線とは伏線ではなく明確な謎なのでストレスになりやすい点が問題かと思います。

 

5.これまでに売れたテンプレを全部やって最悪の作品が出来上がる不思議

 このことを、高級食材という名のテンプレで作ったテンプレ闇鍋と名付けました。閃はまさにテンプレをこれでもかとぶちこんだ闇鍋です。食材はこちら。

 鬼の力、変身して髪の色が変わる、もちろん眼の色も変わる、出自不明、血の繋がらない妹、刀、学園、軍人、ギルド、戦争、女神、幻獣、霊力(マナ)、不死、吸血鬼、ロリババァ、巨乳メガネ、金髪ツンデレ、ラッキースケベ、喋る猫、人型になっちゃう猫、人造人間、バンド、洗脳、ロボット…

 挙げればキリがありません。これらを混ぜた料理がなぜまずくなるのか。その理由を私も少し考えてみました。

 テンプレを使うメリットは、単純に色んな嗜好のファンを獲得できるという点でしょう。また、暗黙の了解により説明を省いたり、またはそれを利用してのミスリードだったりできることもあるかもしれません。

 次にデメリットですが、まずは既視感により量産型のレッテルを貼られ個性が埋没してしまうことが挙げられます。メリットで挙げた嗜好から外れたキャラの魅力はむしろ減ります。また、いくら好きでもあまりにプッシュされると食傷気味になります。製作者の「これ好きでしょ?」という安易な思惑が透けて見えてしまうのでしょう。何食べているかわからん!となるのもありそうです。

 これらのデメリットがメリットを上回って最悪の作品になるのでしょうか。なんとなく釈然としません。もっと根本的な問題があるような気がします。

 homla氏は、いい作品には「見えない部分」が沢山あって、それこそが次世代の基準(評価された要素)であるとおっしゃっています。確かになぜ売れたかが表面的に見えるものだけのはずないですよね。テンプレとはあくまで売れた作品に共通した要素のひとつに過ぎないということでしょう。この点で考えてみました。

 今年の3月にデビルメイクライ5とSEKIROが発売されました。これらの作品の主人公は、共に義手を駆使して闘います。

 どちらの作品でも、義手を付け替えたり改造することで、アクションゲームにおける攻略の多様性を演出しています。ですが、それだけではありません。

 DMC5の義手は、悪魔の右腕を補う力ですが、それは本当の強さを見い出せていないいわばハリボテの力でもあり、主人公の未熟さの象徴でもありました。SEKIROの義手は、かつての忍びが使用していたものを主人公が受け継ぎ、そこに蓄積した怨嗟もまた輪廻しており、テーマでありシステムでもある回生と同調しています。

 よって、これらの作品をプレイした人で、義手が流行ってるから義手キャラ出せば売れる!と安易に考える人はいないと思います。実際に、両作品の義手を同列に扱う意見は見たことはありません。これらの作品にとって、義手はあくまでテーマを表現するための手段に過ぎないからです。極端に言えば、義足であってもよかったはずです(DMC5だとおかしくなりますが)。

 これらのことが「見えない部分」の一端であり、つまるところ製作者の強烈な意図だと思います。しかし、これらの意図を解さず、表面だけを見た人は、義手が売れる要素と勘違いするかもしれません。閃もそういった勘違いをしていたような気がしてなりません。

 閃のテンプレ要素にははっきりした意図が見えません。閃のテンプレの使い方は、ただ単に義手で戦う男を登場させただけに過ぎないのです。つまり、テンプレそのものが悪いわけではなく、意図がないことが問題なのだと思います。これはもちろんテンプレ以外の部分にも言えます。

 

リィンの鬼化も意図がわからない

 最後に、テンプレ要素の一つであるリィンの鬼化について考えてみたいと思います。

 私はスーパーサイヤ人になる練習はかなりしましたから、主人公が変身するのは大好きです。性格がなんか強気になるのも好きです。三つ目がとおるの写楽、遊戯王の遊戯、月華の剣士の楓、TOSラタトスクのエミル、KYOの鬼眼の狂、dmcのダンテ、BBCFのナオト等々…。

 リィンの鬼化も嫌いではありません。しかし、やはり浅く感じてしまいます。製作者の意図がよくわからないためです。

 リィンの鬼の力は物語上で大きな意味を持ちます。鬼の力は、リィンの自制を失わせる衝動的な欲であり、克服すべきトラウマです。リィンの半生を描くというからには、リィンの成長物語、つまり鬼の力の克服もテーマのひとつであったはずです。ですが、とてもそうは思えません。そう思う理由は七つあります。多っ

 一つ目は、トラウマの解決に対してリィンが能動的ではないことです。それもまたリィンの未熟さだったのかもしれませんが。

 二つ目は、Ⅶ組にトラウマを打ち明けるという重要なイベントであるユミル帰郷編をドラマCDにしたことです。

 三つ目は、鬼の力の克服にⅦ組の助力が極めて希薄であることです。Ⅶ組の想いを代弁したエリゼの想いを代弁したアルフィンの言葉で俺は俺だ理論に行き着いたわけであり、ぎりぎりそれもアリかなと言いたいところですが、やはりどうなんでしょう。

 四つ目は、鬼の力を制御できなくなるきっかけである北方戦役を描いていないことと、それによりこれまでは何だったの?となる点です。北方戦役については、鬼の力以外にも政府の駒として動かざるをえないリィンの葛藤を描く大チャンスであったはずなのにカット。理解に苦しみます。

 五つ目は、エマのペンダントで鬼の力を制御できるようになった点です。鬼の力は霊力(マナ)の暴走であるためエマの魔力で対処した、という理屈はわかるのですが、リィンの努力が見えない点が問題です。また、Ⅶ組の存在もやはり希薄です。

 六つ目は、鬼気合一イベントです。Ⅳの中盤でようやくⅦ組の力が役に立ちます。と言ってもその実態はリィンがみんなを信じる!といった非常に曖昧な対策なのでご都合主義の力技に見えてしまいます。また、これによりリィンの自己犠牲癖が抜ける訳ではないので、リィンの成長イベントとしては今一つです。

 七つ目は、鬼の力とイシュメルガを結び付けたことです。いや、結びつけるまではいいのですが、問題はその先です。鬼の力はリィンの心の未熟さであったはずですが、イシュメルガを倒すことによってそれが克服されたという形に見えてしまっています。イシュメルガを倒すこととリィンの成長に関係性が見いだせないのです。リィンは本当に成熟したのでしょうか。

 また、近藤社長が、鬼の力はイシュメルガの力ではなく帝国の呪いに起因したものと発言したことも見過ごせないでしょう。一気に設定が怪しくなる発言です。

 呪いにイシュメルガの意思が干渉しないのであれば、呪いとは意思のないただの現象です。意思のない現象とはつまり火のようなものです。火を消すことにドラマがあるのでしょうか。バックドラフトでしょうか。よくわかんなくなってきた。とにかく、呪い≠イシュメルガであるならば、イシュメルガを倒してリィンが黒髪に戻ったことに説明がつきません。

 鬼の力は、リィンのトラウマだったり、神気であったり、新たなトラウマだったり、鬼気であったり、呪いであったり、黒幕の力であったりと所在がころころ変わってしまいます。それにより、鬼の力とテーマ(たぶんリィンの半生やⅦ組の絆とか)がイマイチ結びつかないんです。色んなことを盛り込むくらいならいっそ細かい説明なしに、純粋な怒りによって力が目覚めた!くらいのほうがいいです。

 

最後に

 閃における問題点とは、物語を構成する一つ一つの要素に明確な意図がないことにあると思います。homla氏が指摘したけもフレ2における問題点からは少し飛躍した場所に着地したような気もしますが、本質から大きく外れているということもないと思います。たぶん。
 これまでの軌跡シリーズにはきっと「見えない部分」がたくさんあったことと思います。ストーリーRPGと銘打つ以上、次回作では全てをストーリーという目的のために手段を検討してほしいです。